先日のインスタライブで「独立して35年」を急遽ご報告させていただきましたが、たくさんのコメントや励ましの言葉をいただきまして誠にありがとうございました。
その言葉に背中を押され、節目としてあらためてブログに思いを綴ろうと思いました。
若さゆえの過ちや勘違い、迷走や不安もたくさん経験してきました。
それでも数々の出会いや経験、そしてお客様と直接向き合う機会を通じて、自分のものづくりに対する考え方が少しずつ変わっていきました。
今回は、その変化と歩みを、感謝の気持ちを込めてお伝えできたらと思います。
1985年~1990年代:下積みと独立のきっかけ
成人式を終えたばかりの頃の若僧は父の紹介で鞄金具問屋に就職しました。
業界のデザイナーやメーカー、修理業者、仕入れ先職人など色々な人たちと接するなかで、ものづくりの世界に惹かれていきました、人間関係、接客、現場の空気……すべてが学びでした。
その頃DCブランドという日本初のファッションが流行していて、そのブランドの金具に関わって百貨店売り場にその商品がディスプレイされているのを見て感動し、ものづくりに興味が湧いていました。
製造メーカーに転職:独立のきっかけ
金具問屋で働き始めて2年ほど経った頃、常連だったお客様の紹介で、ある製造メーカーの社長から「うちに来ないか?」と声をかけてもらいました。
ものづくりに興味を持ち始めていた“若僧”の私は迷わずその話に乗り、金具専門の問屋から鞄の製造メーカーへ転職。社長と奥さん、二人だけの小さな会社でした。
ここで、初めて本格的に革に触れることになります。
仕事内容は、材料の仕入れ、発注、職人さんへの依頼・進行管理、そして納品まで。生産に関わるすべてを担当する生産管理の仕事でした。
主にメンズ鞄の製造が中心。専属の職人さんが2件、外注の職人さんが2〜3件、さらにメーカーが3〜5件という規模感で、毎日が慌ただしくも充実していました。
当時の職人さんたちは、国産のヌメ革を使い、コバ(革の断面)に染料を入れて丁寧に磨き上げるといった、手間のかかる綺麗な仕上げを当たり前のようにしていました。
私も、残業の合間に見よう見まねで覚え、コバ磨きの手伝いをしていました、今思えば、ここが自分の原点かも知れません。
さらに2年ほど経った頃、社長が突然「メーカー業を辞めて、これからは自分で職人になりたい」と言い出します。
バブル真っ盛りの時代、専属のクライアントたちはヨットやマンションを次々に購入し、景気はよく見えたものの、やがて徐々に下降の兆しが見え始めていました。
新たなクライアント探しも試みたものの、状況は思うように好転せず、資金繰りも厳しくなっていったのだと思います。
「せっかくここまで仕事を覚えてきたのに、どうしたらいいんだ……」と悩んだ末、何の根拠もなくチャンスだと思いこみ、独立を決意します。
幸いにも、専属の職人さんは賛同してくれたことも大きな後押しになりました。
1989年、24歳。独立への一歩を踏み出しました。
1989年10月独立:中野商店、下積みの始まり
職人さんに絶対仕事を切らさないようにと、しばらく同業者のメーカーの下請けの孫請けをしていました。
この頃、事務所兼住まいとして足立区の梅島の小さなアパートを借りていました、職人さんが足立区の西新井や埼玉の草加市、八潮市が多かったからです。
独立といっても、職人さんを確保している便利屋みたいなもんで、メーカーから揃った材料を職人に届け、上がったら届ける、または新しい職人さんを開拓したり断られたり、ドサ回りみたいなもんでした。
数年繰り返した後、新たなメンズ鞄のデザイナーとご縁があり、メンズ鞄卸先問屋と製造メーカーとして取引をさせてもらえるようになりました。
製造メーカーとは
製造メーカーとは、他社ブランドの商品を生産から納品まで一貫して請け負う仕事です。
まずはクライアントのデザイナーと打ち合わせ、支給された(もしくはこちらで手配する)材料をもとに、職人さんにサンプル製作を依頼します、当時の私は、まだ型紙は引けませんでした。
仕上がったサンプルをデザイナーに確認してもらい、修正があれば再制作。OKが出たら見積もりし、本生産に入ります。その後は問屋との取引となります。
注文数は商品にもよりますが、1型あたり色違い含めて約60本前後、3型くらい多い時は6型くらいの時もありました。
指定された革を仕入れ、裁断屋さんや革漉き屋さんといった専門業者に作業を依頼。裏地、ファスナー、金具など副資材も全て手配し、縫製できる状態にセットしてから、ようやく職人さんに渡します。
製作期間はおよそ1〜2週間、途中でトラブルがないか気が気ではなく、よく職人さんに顔を出してチェックしていました。
完成した製品は自ら回収し、事務所に戻ってから検品、アンコ(中詰め)、タグ付け、袋詰め、箱詰め──細かい作業を一つ一つこなし、翌日か数日後には納品に向かいます。
ヒット商品に恵まれれば同じ型で追加受注が入ることもありますが、年2回の展示会ごとに新作を出し、またゼロから作り直す。そんなサイクルの繰り返しでした。
朝から晩まで走り回る日々。事務所に戻れるのはほとんど夜9時過ぎ、そこから事務作業が始まる──そんな暮らしがしばらく続きました。
下積み時代に身につけた仕事の流れやノウハウは大き武器になったけれど、独立してみると資金繰りもすべて自分で考えなければならない、プレッシャーや不安は、常に隣り合わせでした。
機械導入〜HIS-FACTORYへ改名

この裁断機は今でも相棒だ。右側にはゴム糊機、スリッター(幅革切り機)もあるが今はない。
デザイナーさんとの打ち合わせは西東京、材料仕入れは台東区・蔵前、事務所は荒川を越えた足立区、そして職人さんはさらに北の埼玉県・草加で、毎日のように、材料や裁断物、足りない部材を持って走り回っていました。
少しでも無駄を減らそうと、革の裁断機「クリッカー」を導入。
ショルダーベルトなど均一な幅に切るスリッターや、貼り合わせに使うゴム糊機、さらには腕ミシン(Yakumo780)や革漉き機も導入し、小ロットの製作やサンプル制作ができるよう体制を整えていきました。
当時は「生産現場を理解するにはまず自分の手で」と、今思えば機械導入も修業の一環だったように思います。
この時期に屋号も「中野商店」から「HIS-FACTORY」へ改名しました。
1995年〜2000年代:大量生産の波と、その先にあった迷い
1995年、同業の大先輩の紹介で台東区・鳥越に事務所兼作業場を移転。
この頃からライセンスブランドとの付き合いが始まり、それまでのメンズ鞄から、革×ナイロンやファブリック素材を組み合わせたレディースバッグへと軸が移っていきました。
それに伴い受注数も急増、当時の縁もあり勢いに乗って、ついには中国生産にも手を広げてしまいました。
月産数千個という桁違いの量。売上もこれまでと比べものにならない規模となり、「ついに一旗あげた」と勘違いしていたのも事実です。
しかし現実は厳しく、見込み在庫が多すぎ、または売れ行きが鈍っているのか「納品を遅らせてほしい」「すべて買い取るから値引きを」などの要求が多くなりました。
元々支払サイトが長いのに、さらには薄利多売の中、値引きなど、それはないでしょうと言いたいところですが、断れば次の注文がなくなるかもしれないという不安が常につきまとい、悪循環でした。
さらに、製品の細かいクレーム──がま口の硬さ、小さなキズ、メッキの剥がれ──も返品や値引きの理由となり、不満と不安が蓄積していきました。
中国生産に手を出しことは「最大の後悔」でした。
売上を上げたかった、そして上がった、しかし、利益は薄く、返品と値引きの連続。
支払いサイトは2ヶ月以上、資金繰りに追われ、借入は増えるばかり。
「自分は一体、どこへ向かっているのか」──そう自問する毎日でした。
こんなはずじゃなかった・・・自分の無力、人間不信、自己嫌悪とナーバスな日が続きました。
自分の力量に合ってない、身の丈に合ってないことも思い知らされました。
2005年〜2010年代:メーカーとしての試行錯誤、まだ続く下積み時代
売上を上げることが“ステイタス”だと勘違いしていた自分は、借入金は増えるばかり、つまり赤字で火の車。
このままでは、まずいと
①このまま続ける ②辞める(自己破産) ③原点に戻って再スタートする
①はすでに無理がある。②は「逃げ」のようで自分にはどうしても受け入れられない。実際、自己破産が何度も頭をよぎったこともあります。でも、どうしても「負けたくない」という気持ちがどこかにありました。
だからこそ、③の「原点回帰」を選びました。
ちょうどその頃、日本国内の高齢職人さんとの出会いがあり、専属で3名件体制を組むことができ、これを機に海外生産・ライセンスブランドから撤退、再び国内生産に切り替え、顔の見える範囲でのものづくりを目指すようになりました。
墨田区吾妻橋へ:2005年
あわせて、経費削減のため事務所の移転も検討。できればそれほど遠くには行きたくないので、隅田川を越えて墨田区をリサーチし始めました。
ベスパで不動産屋を何件も何件も回りながら探していたところ、最初に目に留まったのが吾妻橋の古い一棟ビル、どこか引き寄せられるような感覚がありここ吾妻橋に決めました。
再スタートといっても何を・・・
再スタートといっても、具体的に何から始めたらいいのか正直、わかりませんでした。
生産管理の経験は少し積んだかも知れないが、自分自身に技術的なスキルがあるわけではない、何ができるのか、自問自答の日々が続きました、そんな中で思い出したのが、鞄製造メーカーに入りたての頃に見た「コバ磨き」
ヌメ革(オイルレザー)の裁断したコバ(エッジ部分)を磨くと美しい艶、表情、コバ塗りのインクとは違い、味があります。
当時の社長や、今でも心の中で“師匠”と呼ぶ職人がやっていた、手間のかかるその作業を、今度こそ自分のものにしたいと思いました。
師匠に相談すると「食えないかもしれないぞ」と一言、それでも、コバ仕上げ(磨き)に価値がある、そう信じて始めました。
千本ノックも覚悟してました.
取引先の問屋(メンズ鞄専門店)に提案したのですが、単価的に安めを狙ったが裏目に出たというか、多くの注文が入りましたが生産はかなり大変でした。
数ヶ月、2年くらいだろうか、バイトを3〜5人雇い、自らも作業に参加し毎日20:00くらいまでは作業していました。
師匠が言ってた通り人件費を払うと、自分の工賃はほぼ出ない、全体的な利益もかなり薄いという結果であった。
ナーバスになる日々が続きましたが、後に引けなく意地でコバ磨きを続けました。
納得がいかない日々
まだまだ自分の能力不足だってことは、分かっているが、それでも毎日真面目に手を動かしているのに自分の工賃が出ないって……。
一体どういうことなんだろう、またしても失望感が出てしまいました。
他社ブランドメーカーから依頼された持ち手を、ただひたすら大量に作る毎日が続いている中、だんだんと「もっとこうすればいいのに」とか、「この薄さで本当に大丈夫なのか……」と、次第に違和感に気づき始めました。
いや、でも手間をかけすぎれば工賃が合わないし、職人さんたちは厚物を縫えるミシンも持っていない。
結局のところ─、言われた通りに作るしかない、余計なことをすれば、自分が損をするだけ。。。
……けれど、厚物が縫えないというのがずーっと引っかかっていました。
そこで私は、ついに中古のシンガー製・厚物専用ミシンを購入することにしました。(その時点で依頼された持ち手に使ったわけではありませんが。)
かなり古く、無骨な見た目のくせに、分厚い革をガシガシと縫い進めてくれる。
なんとも頼もしい存在でした。
これは自分の武器になるかもしれない
自分ならこうするというのを試行錯誤を繰り返し、形にしてみました。
速度は遅いし衝撃もすごいが、極太0番糸で3㎜厚の革2枚、3枚重ねてもガシガシ縫ってくれる。
量産向きではないが、ひょっとしてこれは自分ブランドに活かせるかもしれないと思い始めました。
昼間は問屋の作業をして、19:00過ぎから自分ブランドを夢中で作っていました、今のトートバッグ(アンマサーレ)の持ち手の初期型と根革。
特殊な縫製が面白くなってきて自分ブランドを作りたいと思う気持ちが上がってきて、前向きになってきました。
夜な夜な失敗作を気にせず作り続けました。
2Fをショップにしちゃおう!
うだつの上がらない日々の中、自分ブランドサンプルを作っているうちに急に思いついた「2Fをショップにしちゃおう!」
まだ並べるほどオリジナル商品も揃ってないのに笑
引越ししてから約1年が過ぎた頃か、片付いていないまま放置されていた荷物を別の部屋に移動したり断捨離して、とりあえずつけていたブラインドを開けてショップにしちゃおうと決めた。
今思うと後先考えず、思い立ったらすぐ行動に出ていました。
ホームセンターに毎日のように通い、板を購入し、こちらでカットし棚を作った。
素人なのでサイコロ式の棚を作っていた。
右のカウンターは当時知り合いだった木工職人にお願いし、塗装などできることは自分でやり作業は毎晩遅くまで続き、同時にオリジナルサンプルも作り続けました。
ショップオープン
2006年5月とうとうショップが完成した。
当時手伝ってくれた友人には感謝しています。
1Fの工房からも鞄が見えるよう棚を増設し照明も付けた。
しかし、お客さんはほとんど来ませんでした。
2007年何かが変わり始めた
2007年墨田区のものづくりをPRする”すみだ3M運動”という活動に認定させていただきました。
墨田区にはあまり、ゆかりがなかったけど区のイベントなどに少しずつ参加したりして、鞄業界とは違う人達との交流も増えていきました。
またちょうどこの頃、東京スカイツリーの建設が始まり、漠然と何かが変わるかもしれないと密かに期待をしていました。

2007年東武橋から
自分ブランドとして
#0番糸で厚物を縫えるので、他社製品ブランド生産(量産品)では出せない表情、鞄ができるのでだんだん面白くなってきました。
この革は国産のグローブ調のオイルレザーです。
アドラーとの出会い
独立した時からお世話になっている荒川区の”鎌田ミシン商会”さんから「厚物用のミシンの中古でましたよ、アドラー」えっ!!ドイツ製のスーパーマシンだ。
すぐに見に行って、すぐ買いますと手付金を置いて、後日ローンを組んだ。
この、アドラーのマシンの出会いによって、耐久性のある鞄作りの発想が膨らみました。
ブッテーロやミネルバボックスとの出会い
あるアパレル系のデザイナーさんのサンプル依頼で素材の革はブッテーロ。
コバを磨くとオイルがしっかり入っているのがよく分かり、面取りも切れ味もよく、染料も美しく綺麗に仕上がった。
今まで支給されてきたヌメ革とは全然違う、イタリア植物タンニン鞣しの革にとても魅了されました。

このワインレッドのブッテーロは、当時の友人の結婚式のウエルカムボードを作った時の額縁のコバ。
ミネルバボックスやプエブロも裁断すると真っ赤に熱したナイフで凍ったバナナに切ったようにスーッと革切り包丁が進みました。
また、傷がついても擦ると直り、使い込むほど色艶が上がり、ほんとうの『アジ』とはこういうものだと思い知りました。
自分ブランドはイタリアン植物タンニンレザーで行く
アドラーとブッテーロ、ミネルバボックスを活かした0番ステッチのデザインや丈夫な鞄を作ることができる、そしてトートバッグammassareやバナナショルダーが誕生するのであった。
オレだったらこんな鞄を作りたいからのスタートでした。

ミネルバボックス/オルテンシア&ブッテーロ/ブルーのトートバッグammasarre初期型(縦型)

ミネルバボックス/プルーニャ&ブッテーロ/ワインのバナナショルダーM初期型
イタリア植物タンニンなめし革は色数も多く美しく、風合いも今まで見たことのない革で、またよく言われている”使い込むと味が出る”というのが、今まで他社ブランド生産で支給されていた革とは全然違うことがあからさまに分かりました。
革の決定的な違い
ある日、他社ブランド生産のメンズ鞄問屋から支給されたこの鞄は、鋲がとれたか何かの修理で戻ってきた時、撮影しました、とても違和感を感じたのを強烈に覚えています。
それほど日数経っていなかったはずです、革が擦れて表面の色が剥がれています、しかも革の表情に艶も出ていない。
他社ブランドから支給されていた革は今まであまり気にもしなかったけど、味が出てるんじゃなくて劣化していた事実に、自分の知識の無さ、10年以上も革業界にいたのに情けなく、憤りも感じました、こんな物を世に送り出していたんだと。
こちら、知り合いの鞄ですが、根革の薄さで革がちぎれています、量産品の結末です。
こちら余談ですが某スーパーブランドのお財布のコバ仕上げ、ピンクの革に黒のインクを塗ってありますが、擦れた箇所はピンクを通り越して下地のベージュらしき色が出ています。
今まで、先の事を考えないでクライアントから言われるままの革を使って、見積もりと納期だけを気にしながら生産し問屋に納品したら終わりという、自分のやってきた流れが強く違和感を抱きました。
下請け脱却の決意
ある時、他社ブランドからトートバッグの製作依頼を受けました。
本体は頒布、パーツはヌメ革。作りはシンプルでしたが、革の部分にはアドラーの0番ステッチを提案し、職人さんに出さず工房で自分が全て手掛けてみることにしました。
全部で90本位生産しただろうか、約2週間くらいかな、毎日21:00過ぎまで働きましたが、下仕事を手伝ってくれた分をパートさんに支払うと私の加工賃は時給数百円にしかなりませんでした。
自分の段取りの未熟さもあるとは思うが、安すぎるのにもほどがある、“ダメだこりゃ!”
加えて、問屋の支払い条件も長い間ずっと引っかかっていました。
月末締めの翌々月20日払い、しかも満額が支払われるとは限らない。
それでは困ると言っても何も変わらない、当時の職人さんも抱えているのですぐに辞めることもできなかった。
俺はこんな船に乗りたかった訳じゃない。
長年分かってはいたけど、この辺りの問屋と付き合っていたら共倒れする、さらに強い違和感を抱きました。
下請けもやりながら自社ブランドも並行していましたが、この仕事を期に問屋の下請けの仕事は近い将来、リスクを負ってでも脱却すると決意しました。
手伝ってくれた仲間たち
この頃、まだ他社ブランドが多く、細かい仕事を手伝ってくれた仲間がいました。
一番しんどい時でした、本当にありがたかった、みんな元気?!
刺青だらけの”レン”とか強烈な個性があるやつから、今では甲府で靴屋やってる”ミッチ”や、ヨーロッパ人と結婚した”Yちゃん”は昨年ミラノで再会できたのは超嬉しかったなあ・・・・。
断捨離
下請けの仕事をしていると、仕入れた材料がどんどん余ってきて、どんどん場所を占領してきます。
最初は余った材料で試作を作ってみたりしたこともありましたが、他社製品ブランドの革であったりナイロン生地だったりと自分の好みではない素材だし全部、文化服飾学院に寄付しました。
これだけの材料を買っていたのでもったいなあー・・・とも思いましたが、使いもしない物を溜め込んでも仕方ないし、安く売るっていってもなんか不本意だし、学生が役に立つというのなら良かったと切り替えました。
負の産物が消え去りスッキリしました。
鳴かず飛ばずの先に
長いトンネルの先には何か待っているんじゃないかと、密かな期待を持ちながらオリジナルブランドサンプルを作り続け、ショップは土日祝、お盆休み、年末年始もオープンしほぼ年中無休でショップは開けていましたが、しばらくはお客さんは来なくて、まさに鳴かず飛ばずの日々が続きました。
商品を撮影してホームページに掲載したり、ブログは毎日のように更新しましたが「これ、誰がみてくれてるんだろう」と遠くを見てボーッとする自分もいて、めげそうな時もありましたが、とにかく続けてみました。
墨田区の街が変わってきました。
2007年から建設が始まった東京スカイツリーもだいぶ高くなってきました。

枕橋から、まだ川幅は広く、商業施設も遊歩道はまだありません。
当時、枕橋の麓に”まくらばし茶や”という小さなお店があって、東京スカイツリー建設の定点観測写真を撮るおじさんたちがよく集まっていました。
ここの関西のおでんは美味しくてよく食べにきてましたが、そのおじさん達とはあまり仲良くなれませんでしたが好きなお店でした。
テレビ取材 2010年
東京スカイツリーがもう直ぐ完成と墨田の街が少しずつ変わりつつある中、テレビの取材がありました、TBSの”知っとこ”(2010年6月)土曜日の朝の情報番組でした。
放送後の10:00ごろシャッターを開けると数名並んでいて、とてもびっくりしました。
続いて11月にはテレビ東京”出没!アド街ック天国”にも放映していただきました、25位にランクイン。
この頃はミネルバボックス13色から選べるセミオーダーがメインで、ショルダーベルトのコバを面取りしコバ磨きするのもきちんと紹介してくれてとても嬉しかったです。
在庫はできる資金もなかったので注文をいただいてから一つ一つ制作するセミオーダー方式で、トートバッグammassareやバナナショルダーなどが少しずつ注文がいただけるようになりました。
動き出してきた東東京
東京スカイツリー開業に向けて、墨田区がいろいろ動き出してきました。
墨田区観光協会ができたり、区内の飲食店やものづくり(販売だけでなくワークショップも)野外のイベントがたくさん増えました。
またお隣の蔵前はJR御徒町〜秋葉原の高架下にものづくりのショップが集まる2K540や台東区南部エリア(御徒町~蔵前~ 浅草橋にかけての2km四方の地域)を歩きながら「町」と「モノづくり」の魅力に触れられるイベント、モノマチというイベントが始まりました。
東京スカイツリーだけでなく、東東京、ものづくりの街というキーワードにスポットが当たっているのを知り、街が動き出してると感じながら密かに期待していました。
すみだ川ものコト市 2011年
向島育ちのK氏と縁があって、彼は映画制作をしていて映像で区内のPRに一役かっているという。
なんか怪しいやつだなと思っていたが、K氏は墨田の事業者さんを色々紹介してくれた、地元愛に溢れているピュアなやつであった。
色々な人と会っているうちに”すみだ川ものコト市”という牛島神社の境内でのクラフト市に誘われ参加しました。
初めは付き合い程度で軽んじていましたが、一日中、お客さんからスタッフさん、みんな笑顔でとても活き活きしていて、優しさに包まれたような今まで味わったことのない雰囲気でした。
また次の日にFacebookで知ったのですが、実行委員会やボランティアの人たちは数ヶ月前から準備し、当日も5:00から設営、夕方から夜にかけては撤収と大変な事をしてくれていて、とてもありがたいと思いました。
思いやりや感謝の気持ち、繋がりの大切さを学びました。
また、オープンファクトリーのスミファや蔵前のモノマチ、奥浅草のエーラウンドなどのものづくりイベントも積極的に参加し、ものづくりが好きな人と直接お話しもできて、次々とアイデアも湧いてくるようになりました。
また、出店者さんや運営スタッフさんや行政の方々とも仲良くさせていただき、仕事という概念だけでなく、街と地域が大切なことも学びました。
ワークショップ
イベントがきっかけで、色々な手仕事の方々とも知り合えました、特にワークショップでそれぞれみんな工夫してお客さんが喜ばせているのを目撃したんです。
紙を断裁する小さな工房がいろんな色の端材を選んで自分好みのメモ帳やノートを作れるとか、町工場で出た金属やウレタンなどの端材を使って万華鏡を作るとか、大人も子供もとても楽しんでる姿を見た時、感動し自分もやってみたいと思いました。
他社ブランド生産で採算が合わないので封印していた手縫いの道具を久しぶりに出して、手縫いのキーホルダーやパスケースなどの革小物から始めました。
お客さんはとても喜んでくれて、そんなに喜んでくれると自分も嬉しくなって、ブックカバー、パスケース、名刺入れなどの革小物の手縫いのワークショップは毎週のように開催しました。
この頃、まだ1Fの工房でオーダーの仕事の材料や道具を片付けてから、ワークショップの準備と開催、そして片付けと今思うとゾッとするほど面倒でした。
浅草エーラウンドでは初めて”1日で作る手縫のトートバッグ”を開催させていただきましたが、すぐに予約はいっぱいになりました。
素材も知って欲しくて、ブッテーロ、プエブロ、ゴーストとオーダーメイドと同じイタリア植物タンニンなめし革を使い続けていました。
隅田川右岸左岸
隅田川を挟んで台東、墨田の革のまち散歩を紹介する雑誌、モノマガジンに紹介される機会がありました。
下町のレザーショップの先駆けのエムピウ、池之端銀革店、人伝では知っていたものの同じ雑誌で掲載されたのはとても嬉しかったです。
東京カレンダーでも墨田区側は東向島珈琲店のマスターが、台東区側はカキモリのHくんが地域の個性的なお店を紹介するという企画で多くのクリエーターさんを知っていろんなことやってる人がいるんだなあと感激しました。
※2012年6月号
■2015年〜2025年代
2015年ごろか、プエブロやミネルバボックスのバダラッシーカルロ社のシモーネ氏、ブッテーロ、マレンマのワルピエ社のミケーレ氏と記念撮影、インポート革専門の輸入商社のサライ商事さんからタンナーさんとお話をさせていただく機会に誘っていただきました。
3度ほどお話しする機会に参加してから、それから約9年経った2024年の2月にミラノで再会できるなんて思いもしませんでした。
顔を覚えててくれてとても嬉しかったです。
この頃からプエブロを使い始めて、今でも定番はもちろんのこと、新作もプエブロを使い続けています。
エムピウとのコラボ
墨田・台東の地域交流を通じて、たくさんの人との出会いがありました。
なかでも、リスペクトするエムピウのM氏とのご縁は大きな転機となりコラボ実現したのがGAGLIARDO(ガリアルド)彼の独特なデザインを私の作り方で製作させてもらえ一切の妥協もせず作り込みました。
エムピウのコラボのおかげでバイヤーさんの目にも止まるようになり、少しずつ自信につながってきました。
また、M氏との交流を通じて、蔵前・浅草橋・浅草といった地域とのつながりも広がりました。
ものづくりに携わる“若手からオヤジ世代の大人たち”との関わりの中で、商売の姿勢や人との距離感、そして“個々に好きな事を続けていく”ことの魅力も学ばせてもらいました。
──まぁ、正直なところは、飲み会が増えて楽しいだけかもしれませんが(笑)
催事出店
ある雑誌の取材がきっかけに、丸善日本橋の”職人展”という催事に出店しないかとのお誘いがありました。
初めての出店で、準備からセッティング、接客など初めての事ばかりでハードでした。
最初の頃、商品を見ている人に接客しようと近づくとスーッと影のように離れられ、タグを見てプイッと立ち去る人、ただ触りながら歩いている人などなど、また自分のブランドの説明もうまく説明できなくて、凹む日も多かったです。
メーカー業をしているときは、特定の人としか会わなかったし、ましてはエンドユーザーさんと話をするなんて経験がなかったので、自分の無力さを感じました。
でも、ある日突然お財布が一個やっと売れた、えっバッグも、そしてまた来年経験して、だんだんと慣れてきて、失敗だらけと小さな成功体験と試行錯誤を繰り返し、2年目からは楽しくて待ち遠しくなるようになりました。
神保町の三省堂書店さんにもご縁があり、神保町いちのいちのクリスマスマーケットも毎年12月に楽しい催事でした。
スタッフさんには大変お世話になりました。
工房ショップリニューアル 2019年
2019年、二度目の工房ショップリニューアルはカフェスペースを取り壊し、ワークショップスペースにすることに成功しました。
リニューアルパーティーではたくさんの仲間や友人が足を運んでいただいて本当に嬉しかったです。
その後、おかげさまでワークショップは大盛況が続きましたが、現在はイタリアンレザー講座を設けたり、じっくりと取り組めるスタイルに変えつつ開催しています。
無我夢中に色々新しいことに挑戦しては失敗を繰り返し、たまに小さな成功を体験し、いつの間にか自社ブランド100%になっていました、令和元年あたりだと思います。
気がつくと180°人生が変わった
イベントがきっかけでたくさんの方と出会え、下請けをしていた頃の考え方、行動とも180°変わりました。
たくさんの違う仕事をしている方々のそれぞれの仕事の向き合い方、価値観を知ったり、自分に足りないことが知らず知らず分かるようになってきました。
ワークショップや催事、接客などやったことのない事ばかり、失敗も挑戦もすべてが糧となり、やがて「手応え」へと変わっていきました。
ものづくりに対して真摯に、時間もコストも惜しまず取り組めるようになったのは、この経験があったからこそです。
さらに、「流通」という概念そのものを問い直すようになりました。
問屋やメーカーの中間構造を通すのではなく、自分の目が届く範囲で、お客様へ直接届ける。
「下請けの脱却」は、長年のスローガンでもありました。
物があふれるこの時代だからこそ、あえて大量生産はしない。
長期使用に耐えられるものづくりと素材選び、また修理があれば可能な限り直す、製造元として当たり前のことする。
イタリア植物タンニン鞣し革への想い
イタリアンレザーについて調べていく中で、トスカーナ州にある「イタリア植物タンニンなめし革協会(Consorzio Vera Pelle Italiana Conciata al Vegetale)」の存在を知りました。
この協会に加盟するタンナーでは、85%以上が植物由来(タンニン)の成分で鞣された革を扱い、時間も手間もかかるため一度は姿を消しかけた伝統的な“バケッタ製法”を、現代に蘇らせて継承しています。
そこには1000年にわたる歴史と文化が息づいています。
加盟する工場の多くは家族経営で、10数人規模の小さな体制ながら、住居を隣接させることで環境保全にも強い責任感を持っています。
なかでも印象的だったのは、浄化設備への徹底した投資。排出されるのは、ほぼ100%浄化された水のみだと言われており、自然と共存するものづくりの姿勢に深く感銘を受けました。
「新品がピーク」ではなく、5年、10年、20年と使い込むことで味わいが深まり、“ピークを迎える”ような鞄を作る、そんな想いが、自分の中に根を下ろすようになりました。
その想いの背景には、イタリア・トスカーナ州のタンナーさんたちへのリスペクトが込められています。
2020年〜2025年〜
藤巻百貨店さんやフリースピリッツさんとの出会いで販路も広がり、特に革小物が必要とした分の安定した数量が供給することができるようになりました。
鞄は一つ一つオーダーメイドで制作販売というスタイルが定着し、同じ形でもセミオーダーで革の色、裏地の色をカスタムできて、唯一無二の逸品を制作させていただくことが継続させていただいています。
フルオーダーも少しずつ、お受けできるよう体制を整えたいと思います。
あるトートバッグのお客様が『あるショップで“それどこで買ったんですか?”と店員さんに聞かれたので、“HIS-FACTORYでオーダーで作ってもらったんですよ。”って言いましたよ!とわざわざ伝えに来てくれたりと、そういう風に言ってくれる方もいらして、作り手冥利に尽きます。
未だアジア周辺で大量に生産され、消費されるこの時代ですが「HIS-FACTORY」はトレンドや流行に流されることなく、お客様一人一人のこだわりに合わせたものづくりをこれからも続けたいと思います。
35周年をきっかけに記念グッズも制作しています、またお客さんとのオフ会イベントを開催し”経年変化の発表会”とか”どんな鞄が欲しい”とかの交流ができたらいいなと思っています。
今まで続けたれたことも、たくさんの皆様の出会いと経験のおかげです、感謝の気持ちでいっぱいです。
40周年を迎えられるよう、これからも頑張っていきたいと思います。
引き続きよろしくお願い申し上げます。